2019年08月24日

弁証法と唯物論で説く「相対性理論」の誤り(3/4)


《3》光とは何か
 わが流派の最高指導者は、「学問とは、物理であれば、物とは何かからもろもろの何か(光とは、電気とは)が解けることである。すべて一つの本質から、光とはや力とはが解かれなければならない。1本のスジを通したときに物とは何かがわかる。そのスジを通すのが弁証法である」と、断言されている。

 これに尽きるのである。なのに、「真空信者」「アインシュタイン信者」は、すべて一つの本質から説くなど思いもよらず、この証拠はどうだ、こっちにも事実はあるぞ、どう解釈するんだ、と言うのみ。
 そんな事実はウソをつくのだということがわかっていない。

 みんな小学校の算数から、答えを覚えて、覚える能力ばかり発達させれば、長じて1つのスジを通して問題を解く実力が身に付いていない。だから私が弁証法とはどういうものかを説いても理解したくないし、理解できないでいるだろう。哀れというほかない。

 くり返しになるかもしれないが、今一度、南郷継正先生の説くところを読んでみよう。
 『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集』第4巻(現代社)の「武道哲学講義〔1〕」からである。
       *       *       *
 今回の講義で、私が一番説きたかったことは、感性的・感情的レベルでいえば「すべては一つである」ということである。

 古代ギリシャ時代、学問の祖ともいわれている大学者たちパルメニデスとゼノンが、「1は分かれて無限になる」「無限は収斂して1になる」ということを説いている、ということを知ったとき、「たしかに素朴で洗練されてはいないものの、これこそ学問体系の真髄である」と思ったのであるが、これは論理のみの問題ではなく、まさしくこの宇宙の歴史的な事実がいわば1から生成かつ生生発展してきたからこそ、感性的にも論理的にも1としてとらえられるのであり、かつ、そのうえに学問的にも成立しうることになるのだ、すなわち1に収斂できるし、だからこそ、学問的にもそれを体系化できるということがはっきりわかったのである。

 今回の講義では、宇宙の誕生から、太陽系の生成、そしてそのなかの一つの地球の誕生、地球からの月の誕生、そのことによっての地球上での生命現象の誕生、そして生命体への転化とその後の生命体のすさまじい発展、さらに、サルから人間に至っての、社会の発展を、一から始まった生成発展として、説いている。

     (中略)
 このように、宇宙の森羅万象が、すべて1からの生成発展であるからこそ、我々が専門とするいかなる分野の対象も、全体から切りはなされたものとして存在するはずはなく、したがって、全体から切りはなしてとらえてよいものではない。

 たとえば物理と化学とか、政治と経済とかいうのは、人間が対象の現象的事実、事件を勝手に、つまり勝手な感性レベルの論理性で分けてとりだしてきたものであり、あくまで歴史的事実は1から、生成発展している「重層的な複合体」であるということが、今回の講義の内容なのである。
       *       *       *

 読めばおわかりのように、だから「真空」なるものが、宇宙全体から切りはなされたものとして存在するはずはないのである。
 光の速度なるものも、宇宙は全体で一つなのだから、その運動性の法則性の例外であるはずがない。すなわち、宇宙は均一ではないのだ。

 宇宙の本質は運動である。その運動は必ず不均一である。身近な例でいえば、あなたが居るその部屋で気温を測ったとすれば、1ミリ単位で微妙に温度が違うし、刻々と変化している。無限に気温は違うものである。それをわれわれはあたかも均一であるかのように、「この部屋の温度は今、25度だ」などと言う。むろんそれで日常生活レベルは用が足り、間違いではないが、これを称して形而上学的という。

 その部屋の気温がどこで測っても均一ではないと弁証法では捉える。いくら均一にしたくても不可能である。なぜなら、それが宇宙の本質だからだ。その本質論を踏まえれば、光の速度が均一、光の質も均一、宇宙空間にある物質が均一、なんてことにならないのは、中学生でも素直に見て取ればわかる話である。

 もういちど『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集』第4巻(現代社)の「武道哲学講義〔1〕」からの引用に戻る。
      *       *       *
 この世界はすべてで一つであるという意味での一体的実体であり実在だからである。それだけに、物理の研究の場合、これを一体の実体としてではなく、たとえば光とか磁気とか重力とか圧力とか気圧だとかに分けて研究することになると、一つの実体をバラして研究する! ということになり、あげくに光は波動だ、いや粒子だなどというなんとも馬鹿げた説を何百年にもわたって阿呆の論理で展開するハメになるだけ! なのである。

 光などは物の性質の一つだという簡単な原理すらわからなくなっているのである。
 だからどのような分野であっても、全体は一つであるという現実から説くように訓練しないと、すなわち、体系的にすべてを説く実力が備わらないと逆立ちしても学問とはならないから……ということだからである。
      *       *       *
 本稿を最初から読んでくださった方は、ここで南郷先生が説かれようとしていることがわかっていただけたと思う。
 光の問題がでたついでに、南郷先生が光をどう説いておられるかを同じ『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集』第4巻(現代社)の「武道哲学講義〔1〕」から引用しよう。

      *       *       *
 「弁証法は世界の一般的な運動の把握」であり、物理は世界の運動そのものであるから、弁証法がわからなければ、ものの運動がわからない、当然に物理もわからないということは簡単な事実である。

 当然に太陽系もその運動をみてとれないことになる。だいたい、光は直線だ、などとアホなことを考えてしまうことにもなる。太陽から地球まで光がまっすぐにくるのは、その間の物質が、光を直線的にとおす性質をもっているだけのことである。
 だから、光はガラスにあたればはねかえる。それはガラスがそういう性質をもっているというだけのことである。
 地球は光をとおさない性質をもっている。だから光と地球の相互浸透は熱をもつことになる。

 これは光が熱をもっているわけではない。光と地球の相互規定性で熱として現象しているのである。
 地球に光があたったところで、地球は光をとおさないから熱をおびる。だからあたってすぐに熱くはならない。もし水が太陽の光をとおさなければ、水の表面は熱くなる。しかし水はとおしてしまうから簡単には熱くならない。それだけのことである。
      *       *       *


2010-06-30(05:22) : 未分類 : コメント 2 : トラックバック 0



h質問があります!
質問があります!
「相対性理論が間違っている」というほどの重要な事項を、何故学会に発表されないでしょうか?
例えば、(社)日本物理学会、医学物理学会、応用物理学会、(社)物理探査学会等々、いくらでも物理学の学会はあります。
それほどの重大な理論をこんな狭い世界に留めておいては、国家的損失です。

たとえば、有名な冒険家、川口浩は世界の新種の生物をいくつも発見しましたが、学会にそれを発表しなかったばかりに、現在、「新種の生物の発見者」として認められていません。

何故にこれらを学会に発表されないのか、ぜひお教えください。
(あるいは、発表しようとしたところ、何者かに妨害を受けられたのでしょうか?)
2010-06-30(12:33) : 一学徒 URL : 編集
Unknown
質問はごもっともながら、貴殿は学会というものがどういう集団かを知らないのでしょう。
奴らは徒弟制度の集団です。
だから新しい学説はよほどのことでないかぎり認めようとはしません。

それに、西洋の学会はみんなユダヤが握っていますし、キリスト教の根深く、ユダヤの気に入った学説しか認めません。
まあガリレオの天動説が認められなかったことと似ています。

それに、「相対性理論が間違っている」とは、小生の発見ではありません。

要するに学会と言っても、新発見や新発明がすんなり通るものではなく、人間関係で左右されるのが現実です。

またどこの学会も、弁証法がわかっていませんから、理解できないでしょう。
2010-06-30(13:16) : 一学徒殿へ(ブログ筆者です) URL : 編集

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2019年08月23日

弁証法と唯物論で説く「相対性理論」の誤り(2/4)


《2》物質の機能とは
 では次に、物質の機能についてみていこう。
 現在の宇宙は、その運動によって新たな物質として誕生すると直接に、新たなレベルの運動を始めたのである。もし現在の宇宙が消滅するときは、現在の宇宙が運動がなくなるときであり、また新たな物質へと運動=姿を変えるときなのである。

 よくビッグバンとか言われて、現在も宇宙が拡がっているかに言われるけれど、これは三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』でも説かれていたが、観念論である。つまり妄想である。
 宇宙が拡張しているのではない。ただ宇宙が運動しているだけのことである。

 だいいち、宇宙には果て(涯)はない。孫悟空のように觔斗(きんと)雲に乗って宇宙をどこまで行っても、いわゆる物質があるだけのこと、言い換えれば空間があるだけである。
 空間も物質のあり方だ。空間も時間も、人間が創りだした概念だからである。

 ますます難しいことを言うようだが、本来は、物質には時間も空間もなく、存在するのは運動だけである。
 時間とは、物質の変化する部分に着目して人間が基準を創ったもの。
 空間とは、変化しない部分に着目して人間が基準を創ったものである。

 であるから、空間を計るときは、手や足の長さといった何かの物質を基準にするしかない。
 ついでに言うと、ブラックホールもあるわけはない。天文学者も新聞記者も、もうブラックホールがあることを前提にしないと科学じゃないみたいな思い込み方だが、妄想の最たるものである。
 端的には、大きさが存在しない物質的存在はあり得ない。
 観測したらブラックホールがあったぞ、と言いたい向きもあろうが、ものごとは本項で縷々述べているように、大きな観点から捉えなければならず、そういう見方の訓練をしないから、細かい事象(部分)だけ見て、ブラックホールが存在するかのような錯覚を起こすのだ。

 …と言っても、“真空信者”にはわかるまいなあ。

 宇宙は運動している。物質が、世界が、運動している。それが世界という物質の機能(働き)である。弁証法は、この世界という物質の機能である運動を法則性レベルで扱う。
 さはさりながら、世界は運動していると言っただけでは何の意味もない。問題はこの過程性、歴史性をどう個別科学の構築に役立てるように捉えるか、なのである。

 「法則」と「法則性レベル」の違い、ということを冒頭に言ったが、これは弁証法の理解のうえで極めて大事なことである。
 弁証法の対象は、個別科学とは違って世界であり、その運動性だと説いたが、この運動は物理や化学のような個別科学が提示する「法則」では扱いきれない。
 弁証法は対象の運動を扱うとは言うものの、個別の具体的な運動を扱う(個別科学)というより、世界そのものの運動を扱うのだ。
 
 むろん弁証法は個別の運動を扱わないのではなく、個別の運動も世界そのものの運動から扱うのである。個別のものの運動は、世界全体の一部の運動だからである。
 ここを誤解すると、具体的なものの運動とその結果だけ見てしまい、全体を貫く運動性を見損なうことにもなる。

 だから多くの宇宙研究家たちは、天体(星)と、何もないかに見える宇宙空間とを貫く運動性を見てとっていないのだ。アインシュタインもそうであった。だから真空の存在などという妄想に耽る。

 「岡目八目」さんが本ブログ「はやぶさのロマンは高すぎる」(10.6.18)にコメントをくださった。その一部を転載する。
       *        *        *

 現在の世界の大学や学会のどこにも学問と言えるものがなく、したがって全体像を論理的に体系化し総括・統括するものがないために際限なく細分化され続け、この膨大に細分化された事実の研究がますます、全体像を分からなくしてしまっているという悪循環が極限にまで達してしまっている結果として、あるのは技術力に支えられた事実の究明レベルの実用レベルの研究ばかりです。

 ところがこの日本において、人類のために真に役立つ最高の文化と言える本物の学問が創られているのです。しかも、一銭の政府の援助もなしに、学問とは何か、哲学とは何か、認識とは何か(当然人間の認識がいかに誕生したのかの過程的構造も含めて)太陽系の誕生・地球の誕生・生命の誕生(生命の発展の過程的構造の学問的究明)等々が全て解明されているのです。

 月にロケットを飛ばさなくとも生命の誕生における月の役割なども見事に解明されているのです。膨大な経費を費やして月にロケットを飛ばしてもこのような論理を解明したということは聞いたことがありません。
       *        *        *

 「日本において、人類のために真に役立つ最高の文化と言える本物の学問が創られている」というのは、わが空手流派の一部門である日本弁証法論理学研究会、すなわち南郷学派を指している。
 「岡目八目」さんがおっしゃっているように、南郷学派によって「太陽系の誕生・地球の誕生・生命の誕生(生命の発展の過程的構造の学問的究明)等々が全て解明」されている。その一端を、「相対性理論」の間違いを指摘しながら説いてみた。

 「全体像を論理的に体系化し総括・統括するもの」と書いておられるが、それが弁証法である。弁証法がなければ、「膨大に細分化された事実の研究がますます、全体像を分からなくしてしまって」小惑星の砂でもしゃくってくれば、なにかわかるんじゃないか、(少なくとも当分研究するふりして研究室にこもって食っていける)と思うのみなのである。


 現在、「相対性理論」にしても「真空はある」説にしても、「現在の世界の大学や学会のどこにも学問と言えるものがなく、したがって全体像を論理的に体系化し総括・統括するものがないために」誤りを指摘することがない。
 本ブログにからんでくるご仁も、そうした愚かな「世界の大学や学会」の言う事を科学的知見だと鵜呑みにして、「そんな初歩的な知識もないくせに、大秀才のアインシュタイン先生をはじめ、世界中の科学者を敵にまわして大それたことを言うんじゃない」とつっかかってくる。

 そういう妄信者には、いくら言葉を尽くしても無駄である。
 私に反論するなら、まずは三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』からはじめて、南郷継正先生の著作全部を読んだうえでモノ申してほしいが、そういう気はあるまい。だから私もそんな連中を相手にしない。

 これはもう、私が都市計画の話をしているのに、「アインシュタイン信者」は路地裏の話をしようとて文句をつけているようなものなのだ。
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2010-06-29(05:59) : 未分類 : コメント 9 : トラックバック 0




Unknown
説得力のある文章を書くには、真実を書くことが最も強いです。次に強いのは事実。主観的事実であっても、真実は異なることがあります。そして、意見は事実より劣ります。どんな意見を述べたところで、実験結果そのものを覆すことはできません。つまり、意見<事実<真実です。弁証法によるアプローチは、意見により事実や真実を覆そうとするものであってはなりません。例えば、自分の意見に合うように実験結果などを捏造することはあってはなりません。

理論的に予測するだけでは科学ではありません。実験や観測により裏づけて行くことが必須です。弁証法は「理論」の段階です。実験や観測と異なる点が少しでもあれば、潔く修正するか、新たな説明を付け加える必要があるでしょう。自分の意見に合わない事実を無視することがあってはなりません。多くの擬似科学のサイトというのは、この辺りのルールを守っていません。「まず自分の意見ありき」であり、実験や観測の結果を「何かの間違い」と切り捨ててしまうのです。ここの管理人さんには、そういった愚を犯して欲しくないのですが、どうも雲行きが怪しいように思います。

もし、相対性理論により最も簡単に説明がつく実験・観測結果を、弁証法により覆そうとしているならば、ただ屁理屈をこねているだけです。それに代わる新しい理論を示さなければ、無意味な妄想で終わりです。「妄想を述べているのは、どちらの方でしょうか?」という話になります(ビックバンについては仮説に過ぎず、妄想と同じレベルですね。仮説に合う事実を拾ってきているだけ)。

真空については、本当に理解している人は少ないでしょう。相対性理論ではなく、量子力学の理解が必須です。私も本当に理解しているという自信はありません。

こんな風に理解してみてはいかがでしょうか。例えば、この世界がコンピュータのメモリの中にあると仮定する。例えば宇宙が10の1000乗バイト以内のデータ記述されるとする。何も存在しなければ0の羅列、粒子でも電磁波でもあれば、ALL0ではない何らかのデータが入る。この宇宙はまだ10の100乗バイトしか使っていないとすると、まだ900桁分は0なわけです。これが本当の真空(一般に言われる真空は、電磁波のデータが入っていても真空)。宇宙の果てを目指す行為によりデータが0ではなくなりますが、最後にはメモリが飽和して、その場合、宇宙の果て議論の結末はどうなるでしょう…。中の人にメモリの飽和が分かるでしょうか。まぁ、これは妄想ですけどね。
2010-06-29(08:15) : はせら URL : 編集
真空について
真空について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A9%BA" target=_blank>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A9%BA より

量子論における真空

量子論における真空は、決して「何もない」状態ではない。常に電子と陽電子の仮想粒子としての対生成や対消滅が起きている。

ポール・ディラックは、真空を負エネルギーを持つ電子がぎっしりと詰まった状態(ディラックの海)と考えていたが、後の物理学者により、この概念(空孔理論)は拡張、解釈の見直しが行われている。

現在の場の量子論では、真空とは、その物理系の最低エネルギー状態として定義される。粒子が存在して運動していると、そのエネルギーが余計にあるわけだから、それは最低エネルギー状態でない。よって粒子はひとつもない状態が真空であるが、場の期待値はゼロでない値を持ちうる。それを真空期待値という。 たとえば、ヒッグス場がゼロでない値をもっていることが、電子に質量のあることの原因となっている。
2010-06-29(08:26) : はせら URL : 編集
Unknown
たわごとにつきあっている暇はない。

屁理屈は貴殿のほうである。
2010-06-29(08:35) : はせら殿へ(ブログ筆者です) URL : 編集
Unknown
知覚が広がっていくような楽しさを感じながら読みました。
逆に、空間であるとか真空であるとかを何故人間は認識するようになったか、やはり実在しない時間を在るものとして認識するようになった過程も知りたいと思いました。昔、哲学が個別科学に分かれていった後に出来上がったのでしょうか。それとも単に知覚の限界なのでしょうか。
学問レベルに対して随想レベルの感想は失礼かもしれませんが、続きも楽しみにしております。
また「群盲象を撫ず」のことわざを作ったむかしの人はすごいなあ、とあらためて思わされました。
2010-06-29(14:48) : 馬の耳 URL : 編集
お見事!
 大変勉強になりました!今後が楽しみです。南郷学派は、これまで学問とされていた常識的な学説をその根拠となった事実に論理の光を当てることによって、その事実をもってその学説を覆しながら本物の学問を打ち立てて来たと言われております。

それは、
>「法則」と「法則性レベル」の違い、ということを冒頭に言ったが、これは弁証法の理解のうえで極めて大事なことである。
 弁証法の対象は、個別科学とは違って世界であり、その運動性だと説いたが、この運動は物理や化学のような個別科学が提示する「法則」では扱いきれない。
 弁証法は対象の運動を扱うとは言うものの、個別の具体的な運動を扱う(個別科学)というより、世界そのものの運動を扱うのだ。

 と本ブログ筆者殿が述べられている通りに、弁証法的な大きな観点からみると同じ事実が全く違って見えてくるということなのだ、と得心がいきました。

 「学城ー学問への道第7号」の中の浅野昌充博士の論文は、まさにその格好の具体例でしょう。

 それはどういうことかと言いますと、ダーウィンが進化論を確立したというのが、未だに世界の常識となっておりますが、じつはダーウィンは進化論を説くどころか、彼の著書において「進化」の概念規定も、進化という言葉さえ慎重に使っていなかった!という事実には本当に驚かされました。

 ではどうしてダーウィンが進化論の先駆者として祭り上げられることになったのかの謎解きも、その時代的背景から見事に解明しております。
 彼がなしたことというのは、じつは同種でも環境に応じて微少に変異するという膨大な観察記録だけだったそうです。ところが当時は、ヘーゲルによって本物の学問の萌芽である弁証法的発展史観が創られ、それが一世を風靡して生物学の分野にもそうした発展の構造があるはずだという社会的認識は出来上がってはいたものの、問題は、それでも神学的な個別種は各々創造されたものであり変化しないという常識が根強く残っていてそれを打ち破るものが希求されていたところに、タイミング良くダーウィンの「種の起源」が登場し、それを実証的に打ち破ってくれたたために、熱狂的に歓迎され、進化論の先駆者に祭り上げられたというのが真相だったようです。

 進化論の本来的構造としては、個別種の暫時的変異と進化とはその変化の質的な違いがあり論理的に区別と連関において論じられなければならないところが、個別的暫時的変異のみを説いたダーウィンの説をあたかも進化論の聖典の如く祭り上げてしまったために、以後の生物学界に混迷と停滞をもたらすことになってしまったことは何とも皮肉としかいいようがありません。

 しかしながら、ダーウィン自身は自らの論の不足に気づいていたようで、ある種から別の種への変化を実証する証拠を地層に埋もれている化石に求めようとしましたが、結局それを果たせず、彼の目論見は未完のままにおわってしまったということです。

 ここで問題は、この化石という事実の見方です。常識的にはこの化石は進化の歩みを示してくれる証拠となるものと考えられています。ダーウィンも同様に考えて一所懸命探したことでしょう。ところが失敗します。

 この化石という同じ事実に対して学問的な論理の光を当てるとその事実の持つ意味が全く違ってくるのです。ですから、生命とは何かという学問的な一般論・本質論という論理の力を持たなければ事実に誤魔化されて、ダーウィンのように無駄な努力を積み重ねて結局自らの企図するものを得ることができずに徒労に終わる事になってしまうのです。

 では何故ダーウィンの目論見が失敗に終わる必然性があったといえるのでしょうか?それは化石では生命の発展の道筋を立証できない必然性が存在するからです。化石の不連続性・ミッシングリングといわれる由縁は、化石そのものの性質に由来するからです。そこのところを見事に説いている浅野博士の引用しましょう。

「生物と地球環境との関係一般の弁証法性、すなわち生物は地球との一般的同一性を保つ代謝によって地球から生々・生成し、地球に戻る物質であるという関係において、地球と生物とは相互浸透的・相対的独立化の過程として歴史を刻んできたことである。つまり、生物は遺骸すら残さないのが通常なのである。」

 これ自体は非常に難しい文章なのでこれだけで理解するのは大変ですが、興味のある人はこの後わかりやすく説明されているのでそちらに見て頂くとして、これは何を意味するかといえば生命の進化の本流を歩んで質的に発展して人間へと辿り着いたその歩みは、化石としては残らないということです。

 変化していく地球との一般的同一性を保つことができずに絶滅したものの中で、諸々の条件によって同化できなかったものが化石として残ったということなのです。これが、化石は不連続性であり、化石によって進化の道筋を辿ろうとしても失敗する由縁です。これによって何故恐竜の化石が多いのかということもわかりますし、隕石による絶滅説が如何に場当たり的であるかも分かろうというものです。恐竜の絶滅の由縁をも生命の発展の一貫した論理で説けてはじめて学問的と言えるのです。

 そして、南郷学派は、かかるダーウィンの進化論の検討を通じて本物の学問的な生命の進化の過程的な論理構造を創り上げていったのです。そして、その上に立って本物の医学を打ち立てつつあるのです。そうなれば、あまり金にはならないが、異常化した生理構造を正常に戻すことこそが医療の本道であることが自覚され、金になるどうしようもなくなったものばかりを何とかしようとする現代医学のいびつな構造が是正されることになるでしょう。したがって、代替医療などは不要となることは勿論です。これは全て切り捨てられるということでなく、必要な医療は本来の位置に体系化されるということです。

 
2010-06-29(15:24) : 岡目八目 URL : 編集
Unknown
[はせら殿 2010-06-29 08:15]
>> 理論的に予測するだけでは科学ではありません。実験や観測により裏づけて行くことが必須です。弁証法は「理論」の段階です。

上記のコメントを読んで、30年前の私を思い出しました。"武道の理論"(三一新書)の前半を読んでいて、はせら殿と同じようなことを思ったのです。

この本の著者は何を言っているのだ? "柔よく剛を制す"なんて「理論」的にはそうかもしれないが、体が大きい方が強いに決まっている。事実、柔道の全日本選手権やオリンピックでは、100kg以上の巨漢が勝っているではないか。だから試合の形式だって、ボクシングのように体重別になっているぞ。「理論」はそうかもしれないが、現実は違うのだよ。もっと現実を直視すべきだ。私はそのように思いました。

ところがです。本の後半を読んで仰天しました。私の方が間違っていたのだ、と悟ったのです。上記で私は「理論」と言いましたが、"理想論" と言うべきだったのだ、と気づかされました。この本によって、私は理論というもののすごさが分かりました。

そういうこともあって、"弁証法は「理論」の段階です" とのコメントは、私には、ちゃんちゃらおかしいです。

>> 私に反論するなら、まずは三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』からはじめて、南郷継正先生の著作全部を読んだうえでモノ申してほしいが、そういう気はあるまい。

ブログ筆者様のおっしゃるとおりです。しかし、まだ読んでいない人にとっては、何で武道なんだ? そこからして抵抗感あるでしょうね、きっと。

なお、本稿の内容について、未熟者の私には分からない点があります。全部拝読した後に、質問したいと存じます。
2010-06-29(20:38) : motchany2k URL : 編集
宇宙の果て
いつも楽しみに読んでいます。
「宇宙の果て」について
まだよく理解できていないので
教えていただきたいのですが、

>だいいち、宇宙には果て(涯)はない
>いわゆる物質があるだけのこと、言い換えれば空間>があるだけである。空間も物質のあり方だ。空間も>時間も、人間が創りだした概念だからである。

と仰っていますが、これは、
宇宙とは、物質が存在しているだけであり、
その物質の一性質を取り出して空間と認識しているということだと理解しましたが、

>端的には、大きさが存在しない物質的存在はあり得ない。

といった場合、
物質で満たされた宇宙は、
直接的に物質的存在だと思うのですが、
それはつまり宇宙には「大きさが存在している」
ということで、「大きさ」を規定している「端」が
あるということになると思ったんですが・・・・
間違っていますでしょうか。

それとも、
観念論的になってしまうかもしれませんが、
物質が存在する範囲だけでのみ
空間という性質が成立し、物質的なこの宇宙にいるかぎりでしか空間を認識できないので、
その空間の中の概念にすぎない「端」はこの宇宙でしか成り立たず、宇宙と非宇宙の境界を、
物理的な性質である「端」で規定することは
できないということなのでしょうか。
教えてください。

物理学者でもないので難しい話はよくわかりませんが、宇宙の構造とか、そういう話はとても
興味があります。次の章もたのしみにしています。
2010-07-01(01:58) : ひいらぎ URL : 編集
Unknown
何度も書きますが、まずは三浦さんの『弁証法はどういう科学か』から始まって、弁証法の勉強をすくなくとも10年はやらなれければ、宇宙に果てがないとはどういうことかがわかりません。

あなたの質問は、サッカーW杯で譬えるなら、小学生が、ボクもサッカーやっているから、W杯に出たいんですけど岡田監督にお願いしたらチームに入れてくれますか、と聞いているようなものです。

ですから
>まだよく理解できていない<
    ↓
は、当たり前です。
唯物論と弁証法を勉強すれば分かるようになります。
2010-07-01(07:01) : ひいらぎさんへ(ブログ筆者です) URL : 編集
工作活動はやめなさい!
在特会=統一さん!
2010-07-01(07:06) : 傍観者 URL : 編集
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2019年08月22日

弁証法と唯物論で説く「相対性理論」の誤り(1/4)


 《1》世界とは、物質とは
 真空は存在する、と言い張るご仁がときどき絡んでくる。
 アインシュタインなる間抜けなユダヤ人が「相対性理論」などとおかしなことを言って、それを世界中の愚かな科学者どもがもてはやして今日に至っている。

 「真空中の光の速度は一定」とは、弁証法の否定であり、観念論である。
  そもそも真空なんて存在しない、と言うと、真空は何もないってことではなく、多少の物質があるのを真空と言うのだと、しつこくからんでくる者がいる。
 わからない人間にいくら説明しても無駄だから放ってあるのだが、これは論理が、あるいは唯物論と弁証法がわかる人間でないと、非常に説明しにくいものがある。
 唯物論と弁証法さえわかってしまえば、なんてことはなく「相対性理論」なんてものがインチキであることは理解できるのだが、その唯物論と弁証法を理解するのが至難の技なので、事をややこしくしている。

 アインシュタイン信者というか、現今の「科学知識」を信じきっている人たちは、唯物論とは何か、弁証法とは何かを知ろうともしないで、教科書にある知識は正しいのだと私に反論してくる。反論というより、人を見下したものの言い方で失礼きわまりない。だからほとんどは、コメントを読みもしないで捨てている。

 しかしコメントしてこない方でも、私が探査機「はやぶさ」は意味がないとか、相対性理論はインチキだと言うことに、「そんな大胆なことを言っていいのか?」と疑問はお持ちだろう。今回はそのわけをじっくり説いてみたい。

 まずは弁証法とは何かから復習しよう。

 弁証法とは一言でいえば、世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学である。
 と、簡単に定義されようが、この短い文言のなかにもさらに定義されなければならない言葉が並んでいる。では「世界」とは何か、「物質」とは何か、「機能」とは何か、「法則」とはなにか、また「法則性レベル」とは何か、そして「科学」とは何か…である。

 さらに弁証法とは短く定義するなら、それは運動を扱う科学なのだ、となるだろう。世界という物質の機能とはを、一言でいえば「運動」だからである。
 この定義からわからねばならないことは、弁証法という学問は医学とか物理とかの個別科学と違って、世界すなわち物質そのものを対象としていることである。
 だから、世界とは何か、物質とは何かをわかることがすなわち、弁証法がわかることとなる。

 用語それぞれについては、南郷継正著『武道と弁証法の理論(武道講義第4巻)』(三一書房)で「学問形成に関わる論理学基本用語50」をひもといていただきたい。
 また新刊の学問雑誌「学城」第7号に詳しく「学問形成に関わる論理学の必須地図基本用語」について、その大事性が説かれている(「武道哲学講義6」学問とはいわば世界地図を描くことである)。

 それはともかく、冒頭に弁証法とはの定義を述べたが、これでは不十分で、弁証法が学問、すなわち体系(対象の本質、構造、現象をきちんと位置づける)を説いていないからである。
 「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」を、体系的に、内容を説かなければ弁証法の定義を説いたことにはならない。

 三浦つとむ著『弁証法はどういう科学か』は、弁証法をもっともやさしく説いた教科書とされるが、ただしあれは世界のあらゆるもの=森羅万象が弁証法を有していると説くだけである。本来的には、物質そのものの機能(=運動性)が弁証法性だとは、三浦さんは説いていない。三浦つとむは、弁証法の構造を説くのに失敗した。

 そこで「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」を詳しく構造に分け入って説くには、まずは「世界とは何か」「物質とは何か」から説いていかなければならない。
 世界とは、この世のありとあらゆる存在ではあるが、それらをざっくりとまとめて世界と総称するだけではなく、肝心なところは「一つに」まとめて世界と呼ぶのである。

 「世界はひとつ♪」などと歌っている場合の常識レベルの「世界」ではない。
 世界のありとあらゆるものは同じものから出来ていると捉える。この同じものを、一般性で捉えて、あるいは共通性で捉えて物質と呼び、そのすべてを「一つ」として、全体として「運動しているもの」としての「世界」というのである。

 弁証法では、私たち自身を含めての森羅万象、さまざまなものを、物質という根本的には同じものが、変化し運動している、と捉えるのである。
 私たちの身の回りのものに、どんなものがあろうとも、すべては、永遠の過去から永遠の未来まで、物質の変化、発展である。どんなに変化しようとも、物質という本質的なあり方に変わりはない。そう捉えるのが、唯物論的弁証法なのである。

 わかりやすい例でいうなら、太陽も、小惑星も、地球も、そして宇宙空間も、そして地球上の植物も動物も、物質のあり方が違うだけなのである。現在ある宇宙が誕生する以前であっても、ありとあらゆるものは物質である。その物資が、変化発展して、さまざまに現象するだけのことだ。

 これが、この世に「真空」が存在しない証明である。と、言ってもすなおには信じてもらえまいが…。

 真空が宇宙空間、つまりわかりやすくは星と星の間の空間にあると思っているご仁は、その真空がなんだか知らないが、物質が薄いと言おうが、少ないと言おうが、要するに宇宙空間なるものがあって、そこに物質つまり星がいわば浮んでいると思っているのではないか。昔はその空間に「エーテル」というものがあるんだという仮説が人口に膾炙していたが、それらは勝手な思い込みである。

 現在の宇宙の誕生は、事実的にはもう見る事はできない。その痕跡を太陽系の空間やら惑星、衛星などに求めて「砂粒」を探し回っても見つかるわけがなく、巨額の開発費が無駄となるだけである。
 事実で見ることができない以上、論理的に「見る」ほかない。その論理的に見る「術(すべ)」が弁証法である。

 今の宇宙は、あるときに前の宇宙の寿命が尽きて(というのは観念論的に言っているが)、物質が大きく姿を変えて、現在の宇宙が誕生したのである。
 物質の運動形態が全体としても部分としても維持できなくなったから、現在の宇宙へと変化したのだ。

 譬えてみれば、砂(珪砂など)が高温で溶かされてガラスとして姿を変えた、というようなものである。砂がガラスに変わった(運動した)が、物質としては同じ、というようなものである。
 
 現在の宇宙の前がどんな宇宙であったかは、わかりようがない。想像の域を出ない。
 しかし大事なことは、現今の新しい宇宙の誕生が、単なる物理現象ではなく、誕生の過程で物質が大きく変化した「化学現象」になったことである。宇宙全部が一度に化学変化を起こしたから、いうなれば昔の物質はもう残っていないのである。
 
 なぜそう言えるか? それは宇宙は全体として一つだからである。宇宙は全体として一つなのだから、地球は生命体があるという特殊形態ではあっても、宇宙の一般性に貫かれている。だから地球を見て、そこから導きだした「物質の」一般性は、宇宙全体に当てはまるのである。
 くり返すが、われわれはあくまで、われわれの認識が関与できるありとあらゆるすべてのものを、世界という全体で一つであるものとして捉えるのである。この全体で一つのもの、それが物質である。

 そして弁証法とは、冒頭に軽く触れたように、世界そのものの運動性を扱う。
 もし、わたしたちの周りのものすべてが世界であり、その世界に弁証法性が見てとれる、というように言ってしまうと、運動性、すなわち過程性(歴史性)が抜け落ちてしまう。弁証法はあくまで世界の運動において捉えるところが真骨頂である。

 われわれの対象とするものが、社会であれ、自然である、精神であれ、その誕生、運動、変化発展を世界の運動のなかに位置付けなければならないし、またそれが出来るのが弁証法なのだ。
 世界の運動のなかに対象の運動性(弁証法性)を捉えなければならない(捉えられる)からこそ、弁証法は学問の体系化に役立つのである。

 ところが「真空」という概念は、「例外」である。この宇宙空間は、物質がいわば満ち満ちているのであるのに、それが無いか希釈(?)されたところが真空だとのたまうのだ。
 何度も言うが、世界は物質という一つの存在であり、そのものの運動性を扱うのが弁証法なのである。これに例外はない。

 精神とて例外ではない。精神はあくまでも物質のある形態である人間の、脳細胞の機能(働き)であるから、霊魂だの神だのと、精神そのもの自体で存在することは絶対にない。
 唯物弁証法では、精神も社会も、あくまで物質の特殊な運動形態である、と言うのだ。

※ 本ブログ「宇宙膨張説の誤り(上・下)」09年4月30日〜5月1日でも説いてあります。
※ また、本稿は故・加藤幸信氏の論文「弁証法とは何か」を参考にしています。
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2010-06-28(05:43) : 未分類 : コメント 5 : トラックバック 0っっっっっっっh





感動しました
感動的な内容でした。
まるで聖書のようです。
「聖書のようです」と表現してしまうことに人類が未だ聖書の域に止まっていて次に踏み出せていないことを思い知らされます。

主様のブログを小さなモノサシで判断しトンでもだという人は、なぜ逆に今回のような内容から主様を再評価しようとしないのでしょうか、自分達の認識を疑おうとしないのでしょうか・・。

前回の「時間など存在しない」という言葉と今回の「精神も社会も、あくまで物質の特殊な運動形態である」というこの言葉。
感動しました。 
幾千年が過ぎようとも、この言葉の輝きは色褪せることないだろうと思います。

非難する方々には主様が障害者や痴呆患者、性同一性障害?患者さんを差別している訳ではなく、慈愛に満ちた心で接していることを分ってもらいたいです。
理論の光もて、理性で読み解いて欲しい・・。
私の願いです。
2010-06-29(01:06) : you URL : 編集
加藤氏
加藤幸信氏はお亡くなりになられたのですか?
2010-06-30(16:35) : Unknown URL : 編集
Unknown
はい、大変残念なことに…。
2010-06-30(20:57) : 上記Unknown殿(ブログ筆者です) URL : 編集
Unknown
>> 諸学説のほとんどは誤りであると断言してよい。
 たとえば、大陸移動説、ビッグバン説、iPS細胞の万能化、絶対零度、進化論、それに相対性理論などなど枚挙にいとまがないほどである。
>> 論理的なアタマに創り変えることを、それこそ血みどろになりながら果たした

(4/4)稿を拝読いたしました。本稿で説いている内容が、思っていた以上にレベルの高いことに気づき、驚愕しております。簡単にわかるようなものではないのですね。今の私では、いくら説明されても理解するのは無理だと感じました。

>> 要するに宇宙空間なるものがあって、そこに物質つまり星がいわば浮んでいると思っているのではないか。
>> 天体(星)と、何もないかに見える宇宙空間とを貫く運動性を見てとっていないのだ

そのとおりで、私は上記の考え方から抜け出せずにいます。ブログ筆者様が紹介してくださった物質(空間)というものを、どうイメージしてよいのか、わからずにおります。

数年前、下記を拝読した際に、言われてみれば「空気中に真空が存在する」という考え方は、おかしなことだなと思いました。しかし、気圧が低い場合、たとえば地表から離れて大気圏の外れに来た場合は、やはり、空間(真空)が存在するのでは、とも思ったのです。

[冷たい空気はなぜ重い? | 2006年06月23日]
>> われわれが習った理科では(省略)空気は暖まると分子が活発に運動し、そのため膨張し単位体積あたりの個数が少なくなり、結果、軽くなるんだ、と。冷えると、分子は運動が少なくなり、体積あたりの個数が増えて重くなるんだ、と。(省略)
分子と分子のあいだの空間がある、という前提で説明されているが、そんなもの、誰が見たんだ? その空間って何? 真空か? それとも他の物質(分子)があるのか?

2010-07-01(20:38) : motchany2k URL : 編集
Unknown
コメントありがとうございます。

>思っていた以上にレベルの高い<
>今の私では、いくら説明されても理解するのは無理だと感じ<
    ↓
嬉しいお言葉です。
わけがわからいくせに、感情的に反発してくる者が多い中、とても率直な感想だと思います。

そう簡単にわかってはいけない問題なのです、これは。

それに「冷たい空気はなぜ重い? 」を覚えていていただき、感激です。あれはブログをはじめて2日目に書いた文章でした。あんなものでも、当時は発表するときは、ちょっと勇気がいりました。

2010-07-01(21:51) : motchany2k様へ(ブログ筆者です) URL : 編集
posted by 神戸だいすき at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする